2005年01月01日

懐かしい話 第1話

※月刊みりさばの移動に伴ってミリブロに転載された過去記事です。
 初連載は2002年1月でした。

 ここを見ているみなさんはサバイバルゲームをやっている人でしょうか?それとも興味ある人でしょうか?
 もしかしたら、以外と全然興味なくて「Ihagunのおまけだからっ」で見ている人かな....

 そんなわけで最近サバゲーになかなかいけないのにサバゲー記事を書いておりますさめ ひろしです(とほほ)。
 で、今回からしばらく昔の話をしたいと思います。ちょっとなつかし気分でお送りする「ちょっと懐かしい話」(そのままやん)。昔コッキングのエアガンで遊んでいた世代の方は懐かしい気分で、最近の方は昔はこんな感じだったんだぁ...って感じでお楽しみいただければいいなぁ...
 それではまずだい1回目!私のサバゲー初体験の話からすることにしましょう。

 弾がでないけどリアルさに勝るモデルガンと弾が発射できるエアガン。まだ、モデルガンが全盛だったのころ。まだまだサバイバルゲームなんて言葉は出たての頃のことである。
 当時、モデルガン&エアガン好きだった私と、同じ中学校時代からの悪友数名は集まるとモデルガンで遊んだり、近所の公園にエアガンを持ち寄ってちょっとした撃ち合いなどをして遊んでいた。そう、私のモデルガンの買い方撃ち方なんてえのはみんなこいつらから教わったみたいなもんだ。

 まぁこのエアガンの撃ち合いごっこも「サバイバルゲーム」といえばそうなんだけど、これはどっちかっていうと銀玉 鉄砲の撃ち合いの延長線みたいなもんだった。実際サイドアームのハンドガンは銀玉 鉄砲だったしなぁ....

 そんなことをして遊んでいた我々だったが、ある日、 『もっと本格的で大きなエアソフトガンの撃ち合い「サバイバルゲーム」って遊びが定期的に開かれていて、それが近所のカスタムショップ(エアガンのチューニングショップのことだ)で参加できる』  って話を誰かが聞いてきた。で、それならみんなで参加してみようぜ!っていうのが私のサバイバルゲーム道への第一歩だったのである。  が、その一歩を踏み出すには一つの問題があった。その問題とは私の持っていたエアガンであった。当時、私はマスダヤのバッファローSSシリーズというエアガンがメインウェポンだった。  こいつは対象年齢が10歳以上!威力はティッシュペーパーの箱すら跳ね返される非力なエアガンで仲間内で遊ぶにはなんとかなったけど、ホンカクテキサバイバルゲームに参戦するには着距離、命中精度、その他いろいろのものが足りなすぎた。鈴鹿の8耐にチャリンコで参戦するようなものといえばわかってもらえるだろうか?

 鈴鹿にチャリンコで参戦してもしょうがないので私は奮発してカスタムショップ特製の「SS-9000むげんオリジナルカスタム」ってエアガンを買った。  ちなみに、カスタムショップ特製といってもそれは昔の話。今の市販品のエアガンと比べると飛距離、命中精度ともに全然たいしたことない。装弾数だってたったの5発だ。それでも対象年齢10歳以上に比べればものすごい進歩で命中精度なのだ。

 でも、こいつはいろいろとチューニングのベースとしておもしろい銃で、いろいろとカスタムしながらガスガンのサブマシンガンを買うまでのよき相棒として戦い抜くことになるのである。

 で、カスタムエアガンを購入して参戦した初のサバイバルゲームであったが、ビギナーズラックで大活躍...ってことは実はなく、カモにされたり、後ろに回り込まれて撃たれたりと大変な一日だった。まぁ、でも初めての大規模なゲームなんだからこんなものなんでしょう。

 そんなことよりも仲間内の撃ち合いではないサバイバルゲームっていうのは非常におもしろかった。やっぱ人数が多いと違うなぁ...よしっ!是非また参加しよう!何人かが着ていた迷彩 服なんかもできればそろえたいなぁ...なんて考えながら家路についた。  そんなことがちょっと前のように思っていたが、もう10数年前のことだ。

 それから私はエアガンをひっさげていろんなところでサバイバルゲームをやるようになった。はじめは単なる着替えだった迷彩 服にも興味がでてきて「軍服」として着るようになって「ミリタリー」といった趣味にもはまるようになった。

 結局それは今まで長々と続き、ホームページまで開設するようになり、ここで伊覇軍払い下げ品店のコラムを書くまでになっちゃうだから人生なにがきっかけでどうなるかわからないものだと思う(^_^;)。  では、今回はこの辺で!
  

Posted by さめ ひろし at 00:00Comments(0)懐かしい話